「怒り」というのは、悲しみや寂しさを、
とりあえず「怒り」という表現に、仮に変換しておく事で、
悲しさや寂しさを紛らわす、という解釈が最近読んだ、
児童心理という雑誌に載っていた。
私は少々のことではなかなか怒らないのだけれど、
一度怒ると、なかなか収まらない。
と考えると、悲しいことや寂しいことの処理の仕方が、
器用でないのかもしれない、とも思う。
だいたい、喜怒はすぐに顔に出るのだけれど、
哀楽、はなかなか顔に出にくいものだ、と個人的に思う。
顔に出る、といっても、顔が緩んでいても、目が鋭い、とか、
自信のない目をしながら、強い口調で威圧したり、とか、
笑っているのか真剣なのかわからないほど声がよいようにしか変わらない、だとか、
にこやかに接客しているようで、目が敵対しているように厳しい、とか、
世の中いろんなことがある。
自分のことが行き詰ると他人を見る目が自分自身厳しくなる。
その厳しい目で、完璧に映った人は実質的に私自身の完敗を意味する。
世の中勝ち負けではないのだろうし、頭では理解しようとする。
おかしなもので、この頭がこんなややこしいことを考える。
長くなりました。
気分なかなか切り替わらないけれど、多少強引にでも前向きにか。
まだまだ、仕事得るには遠いのかと思うと、涙以外にもいろいろ出て行くのか。
と、無造作に長く書きなぐるとわけがわからないことも多いが気分はましになる。
才能のある人は才能があるのだから才能によればよいし、
才能のある人の傍にいれば自然と才能はついてくるし、格段に才能がない人、
でなければ、普通は才能の見劣りはしないものだと思う。
だから才能のある人のそばにいたい。し、そういうところで働きたいなと。愚痴を垂れ流し。