自由がどうとか言う以前に、私は原則があると思う。
例えば原則として、時間を節約すべきだという前提があるとする。
この場合、まず手始めとしてひとつの案件を近道で示すことができた。
まず無難に原則にのっとり、手間を取らせず時間を節約する。一件落着。
このことにより普段に組み込まれ、対してまた違う案件でも近道が示せる。
慣れたもので、大体のことには時間をとらせることがない。
すると、逆のことが起こり始める。時間がかかってしまうのだ。
持ち込めば肝心の案件の早期解決よりも、近道の手順のトリックや、
自己との相違性、展開の華やかさといった技法の方向に気持ちが奪われて、
結局、しくみはどうとか、何かに応用して得ができそうだとか、
生活における雑念と煩悩が、華やかな自己理想像と重なり、酒席のような、
無為(?)な時間が浪費されていくような感覚になってくる。
妙なもので、利用するためのものを、と利用して自分でがんばって、
何とかしよう、とすればするほど頑張ろうとする人の時間を浪費する。
そうこうすると、楽観者がトリック解明にはやる現状などに遭遇し、
いずれにもに対し使われるの軽視、活用がない時間稼ぎが憎くもなる。
時間がかからないことを実践しようとの場で、時間がかかりすぎるのだ。
ややこしくなり、当初表現したかったことが言葉になっていない。
ともかくも、シンプルに考え直せば、
時間がかからないためのお節介の技法にとらわれて、自由だので、
注意をひきつけておき、自らの場の華やかなトリックによる
神秘性現世性の誤解を修正せず、シンパシーにより守られて、
多くの人がわからぬまま時間を浪費する、というのは、
現状私が考える、時間節約の原則というものを正しくないと思わせた。
これはまだ通過点で、私が青いことだけを露呈したかもしれないし、
また、原則、という今回の問題を時間をかかって考えて、
なんか、心に重たいものが残って、いやな感じが戻ってきた気がする。
季節柄こうなっているのかもしれないが、せっかく書くことができた。
読み返せば当初の義憤的感覚が、文章のにより私憤ぽくなったのが残念。
推敲の時間の気力が全然起こってこなくなって、年をとった気がする。
自己反駁の推敲の面倒さに気がついた。
一応暫定。
2/24 0:15 またこの感じで、この行為が注意を引こうという煽る自己矛盾。
気がつけばややこしく、満足すれば悪くなれば記事を引こう。