何をやっても楽しい仕事ができた頃を振り返ると恵まれていた。
嘘の想いが、こもった広告に二度も騙された。
人をどうこうしようと言う人が、真剣な人を見て、
足りないところをベースにしか、みてくれない。
私が鉛筆で丸を書くことの一心、とか試験対象物への思い、
という、試験に臨む際の事を残した自負があるのだけれど、
時間がたつと、その要素だけがその対象の向うから形式として提示され、
それをあのときにやってくれていたら、って、
私の仕事を全部なくしてもいいから大事にしたい、
と思っていた思いを、曲解して試験の見極め方に使える、が残る。
まず、(自分にとって)これは使える!、だ。
これを、こう活かしてやろう、ではない。
なんとかして育ててやろう、と言う想いの無い人が、
自分はしっかり育っている、とのおかしな自負がある。
まだまだ若いものには負けない、と思うのもいいが、
次の世代はわが世代を補っている、と言う事を認めない。
基礎学力のベースの進化と欠落点の世代ごとの変化も感じない。
変化を感じない人の基準で人が選ばれる。
でもそれが、常々の時代の移り変わりなのかな。
中途半端な出来合いを、そう思い、ごねながら使うのは、
営利でもなんでもなく、人の未来の浪費だ。
門戸の開放でもなんでもない。 中途半端な出来合いも必死なのよ。
あんな嘘をついて認めない中途半端なできた正規職員を、
総務の中心に据えるのなら、まず半年で、
嘘のつけないように再教育すれば人件費も糞もなく、
よっぽど世の中の役に立つのではないか。
あくまで嘘を認めさせるだけにしては労力を使うか。
煙草で咳をゴホゴホしている人が、質問をする。
介護中に倒れる人がいたら、どうしますか、と質問をする。
現実的に考えると、できることをして上の立場の人を呼びます、
と、私が言うと、わかっていないなこいつは、という顔をされる。
人の命を生かす仕事の人ならば、せめて気の無い煙草の咳は面接中は我慢してよ。
自分の体を生かすことを肯定しない事を隠さない人の前で、
人の生き死にについて真剣に語れ、って言われて、面接が終わり、
何が残ったか。
不採用の通知と、ろくな人材がいないなと思われた、と私面接受けたくない、だった。
でも、、、人の事はいえないな。。、と全てを壊すことも一緒においておく。